GIMHAE NATIONAL MUSEUM
展示洛東江下流一帯は加耶人が多様な文化を発展させた生活の基盤でした。旧石器時代の人々は食べ物を求め、 移動生活をしました。新石器時代には川沿いや海辺に穴蔵を建てて暮らし、魚や動物を捕り、植物採集で食べ 物を獲得しました。磨製石器と土器を使用し、初歩的な農業も行いました。青銅器時代には青銅器、磨製石器、 無文土器を使用しました。稲作など農耕が本格的に発達し、大きな村ができました。巨大な支石墓は農耕社会 の共同体意識が大きく成長したことを象徴的に示しています。
旧石器時代の人々は石を割って、狩猟や採集活動に必要な道具を作りました。突く、切る、掘る、掻く、搗くなど、様々な用途に合わせた打製石器を作りました。周りで手に入れやすい石を利用しましたが、用途によって特定の石を選んで作ることもありました。大きな石器は時間が経つにつれて小さくなり、精巧になりました。
櫓-昌寧 飛鳳里, 全長 178.4cm
新石器時代の舟(復元品)
新石器時代の人々は、足りない資源を周辺地域との交流を通じて手に入れました。時には船に乗って沖に出ることもありました。東南海岸一帯の遺跡から発見された黒曜石と日本の縄文土器は、日本の九州地域と交流した様子を示しています。ベンケイガイで作った貝輪は朝鮮半島から渡った代表的な交易品の一つでした。
昌寧 飛鳳里
約1万年前に気候が次第に暖かくなり、朝鮮半島の自然環境が今と同じように変わっていきました。弓矢を使って鹿やイノシシなどの、暖かい気候に住む速い動物を狩りました。川辺や海辺では骨や石で作った釣り針やもり、網を利用して様々な食べ物を確保しました。網袋が発見されたりもしましたが、狩猟と採集で得た食べ物を入れておいたのでしょう。石で作ったすきへら、鍬で土を耕し、農耕の第一歩を踏み出しました。
新石器時代の人々は、泥を焼くと硬く変わることを知り、土器を作り始めました。土器の発明でやっと確保した食べ物の保管、運搬が容易になり、調理方法にも変化をもたらしました。およそ1万年前に出現した土器は、地域や時期によって形や模様が多様になります。隆起文、押引文など様々な文様の中でも、歯状の施文具で文様を施した櫛文が最もよく知られています。
新石器時代には様々な形の墓を作りました。穴を掘って遺体を埋める方法が一般的ですが、洞窟に安置したり、骨だけを集めて安置したりしました。貝殻や獣の骨などで作った腕輪や足輪で死者を装い、土器を横に置いたりもしました。釜山の加徳島では、新石器時代の共同墓地が発見されましたが、確認された人骨だけでも48体で韓国最大規模です。死者の体をまっすぐにして埋葬した他の地域の墓とは異なり、死者を母親のお腹の中の赤ん坊のようにうずくまった姿勢で埋葬することが多いのが特徴です。
青銅器時代になると、稲作が本格的に始まりました。新石器時代のアワ・キビ中心の小規模な雑穀農業とは異なり、稲作は多くの労働力を必要とし、大規模な村が生まれました。数軒の穴蔵、田畑、村全体を囲む溝や垣根が青銅器時代の村の風景を描きました。農業が最も重要な生業手段として定着し、土地を耕して収穫する道具も発達しました。
農業が青銅器時代の重要な生業手段として定着しましたが、狩猟と漁は依然として重要な食べ物の確保方法でした。石鏃、石槍、漁網錐がそのような様子を表しています。様々な生活道具を作るのに当時も木は重要な材料でした。木を精巧に加工するために、様々な道具が発達しました。蛤刃石斧・手斧・石鑿・鑿などが代表的な木工具です。玉を整えて玲瓏とした色を出す頸飾を作るのにも、石で作った工具を使いました。
青銅器時代の人々が使用した器は無文土器です。無文と言いますが、口の外側に短い線や穴など、簡単な文様が刻まれているものもあります。深鉢形土器・土器大鉢・土器楪匙・壺・甕など必要な用途によって形が多様ですが、底は概して平たいです。新石器時代の櫛文土器と同様に地域や時期によって異なる特徴を示し、ずっと使われました
赤色磨研土器と彩文土器は、青銅器時代の人々が特に力を入れて作った特別な土器です。赤い顔料を塗り潰してつやを出したり、独特な方法で黒い彩文を表現しました。質の良い土を使って丁寧に作ったおかげで、他の生活道具のようにごつごつしておらず、洗練された姿です。貴重な器として扱われ、墓の副葬品としても使われました。
農耕社会では、水の引き入れ、種まき、収穫など、村全体の団結と共同労働が重要になりました。農耕の発達は共同体の内外で様々な葛藤を生み出し、これを調整する人物の役割と権威も次第に高くなりました。巨大な支石墓に入れた石刀や石鏃は、このような現象を象徴的に表しています。一部誇張された大きさや形の石刀や石鏃は、実用性が著しく落ちる点から、単なる道具以上の意味を持っていることを示しています。
伝 金海, 長さ 51.5cm